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罪の根源について

すべての人は罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。(ローマ3:23)

「義人はいない。ひとりもいない。」(ローマ3:10)

私たちは皆、生まれながらにして罪人であると聖書は言っています。
この世では法律に触れるような悪いことをしていなければ、罪に定められることはないでしょう。
しかし、全能の神様の前では、心のなかの悪い思いや考え、良心が痛むようなことでさえ罪になります。神様のみこころから外れることはすべて罪です。そして、聖書は罪の生活を送っている人は天の御国に入れないとはっきりと言っています。

この罪の問題から解放し、救い出してくださる方は、私たちの主イエス・キリストただお一人です!

 

罪のルーツ エデンの園からの追放

神である主は人に命じて仰せられた。
「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べて良い。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」(創世記2:16-17)

アダムとエバはこの神様の戒めを守ることができず、霊的に死んだもの、父なる神様との親しい関係を失ってしまいました。

蛇に誘惑され、善悪の知識の木から取って食べてしまったのです。

蛇の正体
この蛇の正体が黙示録で明らかにされています。

こうして、その巨大な竜、すなわち、悪魔とかサタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。(黙示録12:9)

悪魔とかサタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇とは、エバを誘惑したあの蛇です。
彼はもともとルシファー(ルシフェル)という名の天使です。そして、彼に仕える使いども(悪霊ども)ももともと天使です。彼は神様に対して罪を犯し、そのため堕天使、悪魔となってしまったのです。
すなわち、罪のルーツは、このルシフェルの罪にあると言えます。
ルシフェルは私たち人間を絶えず誘惑し続け、同じ罪を犯させようと吠え猛る獅子のように狙っています。

 

ルシフェルの罪

創世記6章をみてみましょう。

1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。
5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

ここで出てくる「神の子」とは誰のことでしょう。
原語では「בני האלהים」(ブネイ・ハ・エロヒーム)
冠詞付きの「神の子」、いわゆるその「神の子」です。
聖書は冠詞の付いている「神の子」と冠詞の付いていない「神の子」をはっきりと使い分けています。

ある日、「神の子(冠詞あり)」らが主の前にきて立ったとき、サタンも来てその中にいた。(ヨブ1:6)

そのとき、明けの星々がともに喜び歌い、「神の子(冠詞なし)」たちはみな喜び叫んだ。(ヨブ38:7)

冠詞の付いている「神の子」はサタンがその中にいる、すなわち堕ちた天使たちのことを指しています。
冠詞の付いていない「神の子」は主を賛美する神の使い、天使たちのことです。

創世記6章4節から
悪魔、悪霊たちは人の娘(聖書で女、娘は教会を指して用いられることが多い)のところに入り、そのなかで罪の実を生ませた。
ネフィリムは七十人訳で巨人と訳されていますが、ヘブライ語では「נפל」(落ちる、堕落する)ということばをルーツに持っています。
つまり、ネフィリムは堕落した者
そして、彼らはかつて栄光に富む力ある存在(神の御使い)であった。
ネフィリムは堕落してしまった者たちのことを指します。

その結果、地上に悪が増え広がり、神様はこの地上を滅ぼさなければならないと思われました。
それが、ノアの時代の大洪水のストーリーです。
ノアの大洪水についてはここでは詳しく触れませんが、イエス様が「世の終わりはノアの日のようだ」と言われたように、終末の時代を生きる私たちにとってとても重要な啓示を持っています。
この大洪水は水のバプテスマの型であり、肉に属する生き方、罪との関わりを断ち切るきよめについて学ぶことが出来ます。(第一ペテロ3:20-21参照)

 

ソドムとゴモラの罪

ノアの時代の大洪水に似た話が、ソドムとゴモラの町へのさばきです。

創世記18章、19章

そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは大きく、彼らの罪は極めて重い。(創世記18:20)

神様はソドムとゴモラの罪を極めて重い罪としました。
そして、このような罪のためにその地は滅ぼされなければならない状態になりました。

ソドムとゴモラの町の人々の罪は何でしょうか。

創世記19:4-5
4 彼らが床(とこ)につかないうちに、町の者たち、ソドムの人々が、若い者から年寄りまで、すべての人が、町の隅々から来て、その家を取り囲んだ。
5 そしてロトに向かって叫んで言った。「今夜おまえのところにやって来た男たちはどこにいるのか。ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」

「知る」ということばはヘブライ語で「ידע」
完全に知るということで、この言葉は性的な肉体関係を持つことを指して用いられます。

人はその妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み…(創世記4:1)
カインはその妻を知った。彼女はみごもり…(創世記4:17)
彼女はついに男を知らなかった…(士師記11:39) など。

ソドムとゴモラの罪は性的錯乱、好色、淫乱、姦淫の罪であったといえます。
これとほぼ同じ状況が士師記19章に出てきます。

彼らが楽しんでいると、町の者で、よこしまな者たちが、その家を取り囲んで、戸を叩き続けた。
そして、彼らはその家の主人である老人に言った。
「あなたの家に来たあの男を引き出せ。あの男を知りたい。」(士師記19:22)

彼らは男色の罪のなかにいたのです。

 

姦淫の罪

ユダの手紙6-7節
また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべきところを捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。
また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。

ここに、天使の罪、またソドムとゴモラの罪が好色にふけり不自然な肉欲を追い求めたことであると書かれています。

ペテロの手紙第二の2章には、ノアの時代、またソドムとゴモラのことを例にあげて、同じように姦淫の罪の話が書かれています。

しかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。
そして、多くの者が彼らの好色にならい、そのために真理の道がそしりを受けるのです。
また彼らは、貪欲なので、作り事のことばをもってあなたがたを食い物にします。彼らに対するさばきは、昔から怠りなく行われており、彼らが滅ぼされないままでいることはありません。
神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。
また、昔の世界を赦さず、義を宣べ伝えたノアたち八人の者を保護し、不敬虔な世界に洪水を起こされました。また、ソドムとゴモラの町を破滅に定めて灰にし、以後の不敬虔な者へのみせしめとされました。また、無節操な者たちの好色なふるまいによって悩まされていた義人ロトを救い出されました。というのは、この義人は、彼らの間に住んでいましたが、不法な行いを見聞きして、日々その正しい心を痛めていたからです。
これらのことでわかるように、主は、敬虔な者たちを誘惑から救い出し、不義な者どもを、さばきの日まで、懲罰のもとに置くことを心得ておられるのです。
汚れた情欲を燃やし、肉に従って歩み、権威を侮る者たちに対しては、特にそうなのです。彼らは、大胆不敵な、尊大な者たちで、栄誉ある人たちをそしって、恐れるところがありません。
それに比べると、御使いたちは、勢いにも力にもまさっているにもかかわらず、主の御前に彼らをそしって訴えることはしません。
ところがこの者どもは、捕らえられ殺されるために自然に生まれついた、理性のない動物と同じで、自分が知りもしないことをそしるのです。それで動物が滅ぼされるように、彼らも滅ぼされてしまうのです。
彼らは不義の報いとして損害を受けるのです。彼らは昼のうちから飲み騒ぐことを楽しみと考えています。彼らは、しみや傷のようなもので、あなたがたといっしょに宴席に連なるときに自分たちのだましごとを楽しんでいるのです。
その目は淫行に満ちており、罪に関しては飽くことを知らず、心の定まらない者たちを誘惑し、その心は欲に目がありません。彼らはのろいの子です。
彼らは正しい道を捨ててさまよっています。不義の報酬を愛したベオルの子バラムの道に従ったのです。しかし、バラムは自分の罪をとがめられました。ものを言うことのないろばが、人間の声でものを言い、この預言者の狂った振舞いをはばんだのです。
この人たちは、水のない泉、突風に吹き払われる霧です。彼らに用意されているものは、まっ暗なやみです。彼らは、むなしい大言壮語を吐いており、誤った生き方をしていて、ようやくそれをのがれようとしている人々を肉欲と好色によって誘惑し、その人たちに自由を約束しながら、自分自身が滅びの奴隷なのです。人はだれかに征服されれば、その征服者の奴隷となったのです。
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。彼らに起こったことは、「犬は自分の吐いた物に戻る」とか、「豚は身を洗って、またどろの中にころがる」とかいう、ことわざどおりです。(
第二ペテロ2章)

 

原罪

私たちの罪の根源、原罪はアダムとエバが犯したその罪の中にあります。
「善悪の知識の木から取って食べること」
それが、私たちが生まれながらに持っている罪の性質です。

その罪によって、アダムとエバは目が開かれ、裸であることを知り、腰の覆いをつくり、主の御顔を避けるようになり、いのちの木の実を食べる特権を失い、エデンの園から追放されました。

善悪を「知る」とか「取って食べる」とはどういう意味でしょうか?
「失楽園」とはどういうことでしょうか?
裸の恥を覆うためにいちじくの葉で腰の覆いを作ったんですね。

「誰でも情欲を抱いて女を見る者は、すでに心のなかで姦淫を犯したのです。」(マタイ5:28)

姦淫・好色の罪が私たちの罪の根源と深く関わっていることが分かります。
いまの世の中はどうでしょうか。ますます汚れや不品行が蔓延しているのではないでしょうか。
ノアの時代の人々やソドム・ゴモラの人々は不自然な肉欲を追い求めた姦淫・好色の罪によって滅ぼされました。
それは、世の終わりに生きる私たちが同じように滅ぼされるのでなく、悔い改めて救われるためです!

もう一つの大きな罪の問題は、「嫉妬と高慢」です。
これもルシフェルが犯した罪で、それによって彼が悪魔となったことが分かります。
イザヤ書14章、エゼキエル書28章に隠されています。
また、カインがアベルを殺したのも妬みによるもの。
パリサイ人や律法学者も妬みからイエスさまを殺そうとしていました。(マタイ27:18参照)

神様からの評価でなく、人と比べて自分を評価してしまうと、このように「嫉妬と高慢」に支配されます。人を自分よりも高い存在だと重い、自分自身を蔑むと「嫉妬の心」が、人を自分よりも低くみて蔑むようになると「高慢の心」が湧き上がってきます。

あなたを正しく評価できるお方は神様ただお一人です。
あなた自身もあなたを正しく評価することは出来ません。

愛は寛容であり、愛は親切です。また人を妬みません。愛は自慢せず、高慢になりません。
礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてを覆い、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。(第一コリント13:4-7)

イエスさまの十字架の贖いを信じる信仰によって、この罪の問題から解放されるのです!
天の父なる神様の大きな愛を知って、私たちが本当の愛に生きるなら、もはや「姦淫や好色」の罪、「嫉妬と高慢」の罪をはじめ、すべての罪から解放されます。

本当の愛を知らないから、好色に走ったり、人と比較して悪い思いに囚われるようになるのです。

罪との関わりを断ち切りましょう!

悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行うなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。(エゼキエル18:21)

悪はどんな悪でも避けなさい。
平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。
主イエス・キリストの来臨の時、責められるところのないように、
あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように。(第一テサロニケ5:22-23)

御子イエスの血によってすべての罪や穢れからきよめられた、神の子としてふさわしく歩んでいきましょう!