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神の教会は「祈りの家」と呼ばれる! 【ダビデの幕屋の回復①】

『この方はナザレ人と呼ばれる』

 

マタイによる福音書2章23節

 

「そして、ナザレという町に行って住んだ。これは預言者たちを通して

『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった。

 

 

マタイ福音書のギリシア語原文では、「ナザレ人」をΝαζωραῖος(Nazoraios)というギリシア語で表現しているが、七十人訳ギリシア語旧約聖書では、この言葉を見つけることはできない。そればかりか、Nazaret・Nazareth・Nazara・Nazarenosなど、「ナザレ」「ナザレト」に言及した表現は、旧約聖書の七十人訳には、全く見つけることはできない。

というより、ヘブライ語原文で調べても、旧約聖書中に「彼はナザレ人と呼ばれる」という預言に該当する箇所を見出すことができないばかりか、「ナザレ」「ナザレト」という地名そのものへの言及自体さえも、旧約聖書中には全く見つけることができない。

 

では、「『彼はナザレ人と呼ばれる』と言われた」という旧約聖書の預言は何処にあるか?

 

 

旧約の預言者たちは、「若枝、若木、芽」という言葉でメシアを表現した。

 

イザヤやダニエルはネツァール( נֵצֶר netzer)という言葉で

 

「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝(נֵצֶר netzer)が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず」

(イザヤ11:1-4)

 

「しかし、あなたは、忌みきらわれる若枝(נֵצֶר netzer)のように墓の外に投げ出された。剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。」

(イザヤ14:19)

 

「あなたの民はみな正しくなり、とこしえにその地を所有しよう。彼らはわたしの栄光を現す、わたしの植えた枝(נֵצֶר netzer)。わたしの手で造ったもの。」

(イザヤ60:21)

 

「しかし、この女の根から一つの芽(נֵצֶר netzer)が起こって、彼に代わり、軍隊を率いて北の王のとりでに攻め入ろうとし、これと戦って勝つ。」

(ダニエル11:7)

 

 

 

マタイ福音書2章23節の「ナザレ人(ヘブライ語でnotzri)」という単語とイザヤ書11章1節の「נֵצֶר 若枝(ヘブライ語でnetzer)」という単語は、ともに三つの子音文字「ヌン(n)」「ツァディー(tz)」「レーシュ(r)」で表記される。

 

他の預言者も、同じ意味ながら別のヘブライ語の単語ではあるが、「若枝」について言及している。

 

エレミヤやゼカリヤは( צֶמַח tzemach) ツェマー という言葉で、

 

「その時、わたしはダビデのために 正しい若枝(צֶמַח tzemach)を起こす。彼は王として賢明に治め、この地に正義と公正を実現する」

(エレミヤ23:5)

 

「その日、その時、わたしはダビデの家から正義の若木(צֶמַח tzemach)を芽生えさせる。彼は公正と正義をこの地で行う」

(エレミヤ33:15)

 

「わたしは、わたしの僕である若枝(צֶמַח tzemach)をもたらす」

(ゼカリヤ3:8)

 

「見よ、その名を若枝( צֶמַח  tzemach)という一人の人がいる。彼のもとからそれは萌え出で、主の神殿を建てる」

(ゼカリヤ6:12)

 

 

イザヤやダニエルは( נֵצֶר netzer)ネツァールというヘブライ語で「若枝」を表現していた一方、エレミヤやゼカリヤは( צֶמַח  tzemach)ツェマーというヘブライ語で「若枝(若木)」を表現している。

とはいえ、いずれの預言も同じく、将来への希望となるイスラエルの指導者について表現している点では変わらない。

 

ところで、「若枝(נֵצֶר netzer)」の「ヌン(n)」「ツァディー(tz)」「レーシュ(r)」という三つのヘブライ文字で表現できるこの単語は「見張り、見守る、見張り人」という意味もある。この( נֵצֶר natzar)ネツァールというヘブライ語は、「見守る者、見張り人」とも日本語訳される部分でも用いられている。

「わたし、主は、それを見守る者(נֵצֶר natzar)。絶えずこれに水を注ぎ、だれも、それをそこなわないように、夜も昼もこれを見守っている(נֵצֶר natzar)。」

(イザヤ27:2-3)

 

ちなみに、イザヤ書で「見張り人」と日本語訳されている(נֵצֶר natzar)というヘブライ語はヨブ記にも登場するが、ヨブはそのヘブライ語で(日本語訳では「監視される方」)神に呼び掛けている。

「私が罪を犯したといっても、人を見張る(נֵצֶר natzar)あなたに、私は何ができましょう。なぜ、私をあなたの的とされるのですか。」

(ヨブ7:20)

 

 

イザヤは(נֵצֶר natzar)ネツァールというヘブライ語で「見守る、見張る」「見張り人」を表現していた一方、エゼキエルは( צָפָה tzaphah)ツェファーというヘブライ語で「見張り人」を表現している。

 

「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人(צָפָה tzaphah)とした。あなたは、わたしの口からことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。」

(エゼキエル3:17)

「人の子よ、あなたの同胞に語りかけ、告げなさい。わたしが、ある国に剣を差し向けるとする。すると、その国は人を選んで見張り(צָפָה tzaphah)を立てる」

(エゼキエル33:2)

 

「押し寄せてくる剣に気づきながら、見張り(צָפָה tzaphah)が角笛を吹き鳴らすのを怠ったとする。そのため民は警戒を呼びかけられないまま、やがて押し寄せてくる剣に民の命が奪われるとする。彼らが自らの手落ちで死んだとしても、わたしはその血の責任を見張り(צָפָה tzaphah)自身に求める」

(エゼキエル33:6)

 

「さて人の子よ、わたしはあなたをイスラエルの家の見張り(צָפָה tzaphah)にする」

(エゼキエル33:7)

 

この、見張り(צָפָה tzaphah)に前置詞   מִ  m を着けると ( מִצְפֶּה  mitspeh)ミツフェー「見る場所」となり、イザヤ21:8では「物見の塔」と訳されている。

すると獅子が叫んだ。

「主よ。私は昼間はずっと物見の塔 ( מִצְפֶּה  mitspeh)の上に立ち、

夜はいつも私の見張り所(מִשְׁמֶרֶת mishmereth)についています。」

(イザヤ21:8)

 

イザヤはこの「見張り」( צָפָה tzaphah)ツェフェーも用いている。(イザヤ21:6、52:8、56:10)

 

 

いづれにしてもイザヤもエゼキエルも、同じ単語または、同じ意味ながら別のヘブライ語の単語ではあるが、「見張り、見張り人」ということが神の民の牧者として重要な任務であることを強調している。

 

まとめると、以上のように「ナザレ人」「若枝」「見張り人」は、いずれも「ヌン(n)」「ツァディー(tz)」「レーシュ(r)」のいずれかのアルファベット<n-tz-r>で表現することができるヘブライ語であることが分かる。

つまり、マタイ福音書2章23節の、

「これは預言者たちを通して『この方はナザレ人<n-tz-r>と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった。」

 

という箇所は、ヘブライ語式に、

 

「ナザレ人(notzri)」

 

→「若枝(netzer → tzemach)」

 

あるいは、

 

「ナザレ人(notzri)」

 

→「見張り人 (natzar → tzaphah)」

 

と連想して考えなければ、説明がつかないし理解もできない。

 

 

二世紀前半にヒエラポリスの司教パピアスは「マタイはヘブライ語で主の福音を書いた」と証言しているが、マタイ福音書がまず最初にヘブライ語で書かれたというこの歴史的証言は、再評価されて然るべきではないであろうか。

マタイ福音書が、まず最初に<子音文字のみの表記>のヘブライ語で書かれ、その後ギリシア語に翻訳された、と考えない限り、マタイ福音書2章23節の記述は意味が通らないのだ。

 

「これは預言者たちを通して『この方はナザレ人<n-tz-r>と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった。」というマタイ2章23節の記述に関して、ギリシア語の次元で考える限り答えが見つからない一方、ヘブライ語の次元で考えれば答えが見つかるとするなら、それは、<マタイ福音書がまず最初にヘブライ語で書かれた>傍証ともなる。

 

「ナザレ人(notzri)」「若枝(netzer)」「見張り人(netzar)」

イエスはこの地上に「見張り人」として来られた。

 

さらに、この「見張り人」ということばをキーワードとしてヘブライ語を見てみると、イエスが見張り人であることの本質について、また、イエスの十字架の血潮を受けて贖われた私たちもまた、「見張り人」としての重要な立場を委ねられていることが分かってくる。

 

「見張り人」という意味のことばで旧約聖書中最も多く用いられていることばは、(שָׁמַר shamar) シャマール である。

 

「エルサレムよ。

わたしはあなたの城壁の上に見張り人(שָׁמַר shamar) を置いた。

昼の間も、夜の間も、

彼らは決して黙っていてはならない。

主に覚えられている者たちよ。

黙りこんではならない。」

(イザヤ62:6)

 

このシャマール(שָׁמַר shamar) は旧約聖書の至る所で多用されている。

 

主が家を建てるのでなければ、

建てる者の働きはむなしい。

主が町を守る(שָׁמַר shamar)のでなければ、

守る者(שָׁמַר shamar)の見張り(שָׁקַד shaqad シャカド)はむなしい。

(詩篇127:1)

 

主が見張り人として町を守られておられる。私たちも見張り人として町を守る者として、エレミヤのように(エレミヤ1:11-12)主からの幻を見張らなければならない。

 

見張り人の詩篇として有名なのは121篇である。

 

都上りの歌

私は山に向かって目を上げる。

私の助けは、どこから来るのだろうか。

私の助けは、天地を造られた主から来る。

主はあなたの足をよろけさせず、

あなたを守る方(שָׁמַר shamar)は、まどろむこともない。

見よ。イスラエルを守る方は、

まどろむこともなく、眠ることもない。

 

主は、あなたを守る方(שָׁמַר shamar)。

主は、あなたの右の手をおおう陰。

昼も、日が、あなたを打つことがなく、

夜も、月が、あなたを打つことはない。

主は、すべてのわざわいから、あなたを守り(שָׁמַר shamar)、

あなたのいのちを守られる(שָׁמַר shamar)。

主は、あなたを、行くにも帰るにも、

今よりとこしえまでも守らる(שָׁמַר shamar)。

(詩篇121篇)

 

主がいかに、私たちを愛し守り、見守っておられるお方であるかが分かる。

私たちも、この主の心を持って、この地を見守り見張り人として愛を持ってとりなして行きたい。昼の間も夜の間も、まどろむこともなく、眠ることもなく、一日中24時間祈り賛美し礼拝しとしなし続ける。それが「祈りの家」の使命である。

 

また、詩篇ではこの「見張り人」を「夜回り、夜明けの見張り」(אַשְׁמֻרָה ashmurah)は(שָׁמַר shamarの変化形)すなわち「夜警」とも言っている。

 

まことに、あなたの目には、

千年も、きのうのように過ぎ去り、

夜回り(אַשְׁמֻרָה ashmurah)のひとときのようです。

(詩篇90:4)

(ひとときは意訳で、直訳は「夜の夜警のようです」)

 

私の目は夜明けの見張り(אַשְׁמֻרָה ashmurah)よりも先に目覚め、

みことばに思いを潜めます。

(詩篇119:148)

 

夜の間、夜の見張り(אַשְׁמֻרָה ashmurah)が立つころから、

立って大声で叫び、

あなたの心を水のように、主の前に注ぎ出せ。

主に向かって手を差し上げ、

あなたの幼子たちのために祈れ。

彼らは、あらゆる街頭で、

飢えのために弱り果てている。

(哀歌2:19)

 

 

夜警の祈りは「祈りの家」とって欠かせない。夜の間、私たちは、主のみ顔に顔と顔とを合わせて(主の前に、と訳されていることばは、ヤハウェの顔のこと)私の心を水のように注ぎ出してとりなし祈らねばならない。

 

その他、「見張り」については、ダニエル9:14、ホセア9:8、ハバクク2:1、ゼカリヤ9:8などがある。

 

 

イエスは最後のアダムとして来られた。

 

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

(Ⅰ コリント15:45)

 

アダムは本来、見張り人として、この地を守るように立てられていた。

 

「神である主は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた(שָׁמַר shamar)。」

(創世記2:15)

 

そのアダムが失った「見張り人」としての「真の礼拝者」としての立場を回復されたのがイエスなのだ。

(ちなみに、耕すとは(עָבַד abad )アバドで「礼拝する」という意味もある)

 

「しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。」

(ヨハネ4:24)

 

イエスは、この時代、ご自身が完全に回復された「見張り人」である「真の礼拝者」としての立場を私たちにも回復して欲しいと願われている。

 

しかし、真の礼拝者たちが霊とまことによって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。

(マタイ21:13)

 

そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」

(マルコ11:17)

 

こう言われた。「『わたしの家は、祈りの家でなければならない』と書いてある。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にした。」

(ルカ19:46)

 

これが教会に対するイエスの願いであり、みことばの成就でもあるのだ。

 

主はこう仰せられる。

「公正を守り、正義を行え。

わたしの救いが来るのは近く、

わたしの義が現れるのも近いからだ。」

幸いなことよ。

安息日を守ってこれを汚さず、

どんな悪事にもその手を出さない、

このように行う人、

これを堅く保つ人の子は。

主に連なる外国人は言ってはならない。

「主はきっと、私をその民から切り離される」と。

宦官も言ってはならない。

「ああ、私は枯れ木だ」と。

まことに主はこう仰せられる。

「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、

わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶える

ことのない永遠の名を与える。

また、主に連なって主に仕え、主の名を愛して、そのしもべとなった外国人がみな、安息

日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を堅く保つなら、

わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませ

る。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。

――イスラエルの散らされた者たちを集める神である主の御告げ―― わたしは、すでに

集められた者たちに、さらに集めて加えよう。」

(イザヤ56:1-8)

 

 

この預言が異邦人の地、イスラエルから最も遠い東の果ての地、日本の教会に成就する時、

日本の教会が「すべての民の祈りの家」となる時、すなわち「異邦人の完成のなる時、イエスラエルはみな救われる」のである。

まさに、その時が「主が再び来られる時」なのだ。

 

「兄弟たち。私はあなたがたに、ぜひこの奥義を知っていていただきたい。それは、あなたがたが自分で自分を賢いと思うことがないようにするためです。その奥義とは、イスラエル人の一部がかたくなになったのは異邦人の完成のなる時までであり、

こうして、イスラエルはみな救われる、ということです。こう書かれているとおりです。

「救う者がシオンから出て、ヤコブから不敬虔を取り払う。これこそ、彼らに与えたわたしの契約である。それは、わたしが彼らの罪を取り除く時である。」

(ロマ11:25-26)

 

さらに、異能人の救いに関しては必ずダビデの幕屋が回復されなければならない。

 

『この後、わたしは帰って来て、

倒れたダビデの幕屋を建て直す。

すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、

それを元どおりにする。

それは、残った人々、すなわち、

わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、

主を求めるようになるためである。

大昔からこれらのことを知らせておられる主が、

こう言われる。』

(使徒15:16)

 

これは、アモスの預言の成就である。

 

その日、わたしは

ダビデの倒れている仮庵を起こし、

その破れを繕い、その廃墟を復興し、

昔の日のようにこれを建て直す。

これは彼らが、エドムの残りの者と、

わたしの名がつけられた

すべての国々を手に入れるためだ。

――これをなされる主の御告げ――

(アモス9:11-12)

 

注目したいことは、アモスは「ダビデの倒れている仮庵を起こし」と言っていることばである。仮庵とは原語では( סֻכָּה cukkah)スカーである。シャカーン「住む、宿る」の名詞形の変化形であると考えられる。シェキナー、シャカイナー「主の臨在」の原型でもある。「幕屋」はこの「シャカーン」に前置詞 m (at)が着いて「ミシュカーン」「主の臨在の場所」という意味である。

 

今年、私たち自身が「神の幕屋」となり、教会が「ダビデの幕屋」を回復し、日本全国のすべての教会が「すべての民の祈りの家」と呼ばれることを信じ宣言します。