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いのちの木の回復 【ダビデの幕屋の回復⑥】

いのちの木〜完成したアダム〜イェシュア(最後のアダム)

アダムの堕落によって、いのちの木が失われた。それにより、全人類は祭司であり王としての立場を失ってしまった。それ以来、歴史はいのちの木の回復に向けて動き出すことになる。

創世記3:24

こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 

いのちの木である、神の子としての立場が閉ざされることになった。それ以来はいのちの木の回復が神の最終目的となる。

黙示録22:14

自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都に入れるようになる者は、幸いである。

 

アダムの堕落によって人類はノアの時代に終末を迎えることとなる。

創世記5-7

5

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

6

それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

7

そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 

この、神の心の痛みの「痛み」はヘブライ語で アツァーブ(עָצַב atsab)という。

このアツァーブ(עָצַב atsab)は、エツ(עֵץ ets) すなわち「木」に由来することばである。

要するに、神の心の痛みは、このエツ(עֵץ  ets) 「木」に原因があるということだ。

 

創世記3:16-17

16 女にはこう仰せられた。

「わたしは、あなたのうめきと苦しみを

大いに増す。

あなたは、苦しんで子を産まなければならない。

しかも、あなたは夫を恋い慕うが、

彼は、あなたを支配することになる。」

17 また、人に仰せられた。

「あなたが、妻の声に聞き従い、

食べてはならないと

わたしが命じておいた木から食べたので、

土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。

あなたは、一生、

苦しんで食を得なければならない。

 

このエバにヤハウェが語られた「苦しんで」は、このアツァーブ(עָצַב  atsab)の変化形である。また、アダムに語られた「苦しんで」も同じである。いづれも、「木」から食べてしまったので「のろわれ」てしまったのだ。「苦しみ」エツの原因が「木」エツにあるということをここで明確に示唆していることが分かる。

 

アダムがヤハウェの戒め「取って食べてはならない」みことばを守ることが出来なかったため、イスラエルはモーセを通して、再び戒めを与えられる。それが「十戒」である。

申命記17章から見ると、この十戒を守れない場合、基本は死刑になる。

申命記21:22-23

22 もし、人が死刑に当たる罪を犯して殺され、あなたがこれを木につるすときは、

23 その死体を次の日まで木に残しておいてはならない。その日のうちに必ず埋葬しなければならない。木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。あなたの神、主が相続地としてあなたに与えようとしておられる地を汚してはならない。

 

「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである。」

この、「木」とはヘブライ語でエツ(עֵץ ets) である。イェシュアはこの「木」につるされて、私たちの身代わりとなりのろいを受けられ死なれたのだ。

 

この、エツ(עֵץ  ets) は旧約聖書では328回用いられている。その一つ一つを検証してみると興味深いことが分かってくる。

創世記22:9で、イサクをささげる祭壇のたきぎにこのエツ (עֵץ  ets) が用いられている。ユダヤ人の間では別名、「死刑台の木」と呼ばれている。イェシュアの十字架の犠牲を思わせる。

また、出エジプト記37:10の契約の箱の材料であるアカシヤ材の材もこのエツ (עֵץ  ets) が用いられている。

 

このエツ (עֵץ  ets) はイェシュアを表している。

イェシュアはこの「いのちの木」を回復されるために、私たちの身代わりとなり「木」につるされたのだ。さらに、イェシュアを十字架につけたイスラエルも共にのろいを受けることになる。イスラエルは異邦人の救い、完成のためにイェシュアと同じように犠牲になったのだ。だから、異邦人の完成のなる時、イスラエルののろいが完全に解けて救いを受ける時となるのだ。

 

ゼカリヤ14:16-18

16 エルサレムに攻めて来たすべての民のうち、生き残った者はみな、毎年、万軍の主である王を礼拝し、仮庵の祭りを祝うために上って来る。

17 地上の諸氏族のうち、万軍の主である王を礼拝しにエルサレムへ上って来ない氏族の上には、雨が降らない。

18 もし、エジプトの氏族が上って来ないなら、雨は彼らの上に降らず、仮庵の祭りを祝いに上って来ない諸国の民を主が打つその災害が彼らに下る。

 

救われた異邦人がみな仮庵の祭りを祝うため、万軍の主である王なるイェシュアを礼拝しにエルサレムに上ってくる時が来る!

 

マタイ21:6-10

マルコ11:7-10

ルカ19:37-38

ヨハネ12:12-15

はイェシュアのエルサレム入城のシーンが書かれている。

ヨハネでは

12

その翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、

13

しゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。

「ホサナ。

祝福あれ。

主の御名によって来られる方に。

イスラエルの王に。」

14

イエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。

15

「恐れるな。シオンの娘。

見よ。あなたの王が来られる。

ろばの子に乗って。」

 

ゼカリヤ9:9の引用である。しかし、よく考えると

「ホサナ。

祝福あれ。

主の御名によって来られる方に。

イスラエルの王に。」

とは、詩篇118篇の引用であり、これは「過越の祭り」ではなく「仮庵の祭り」の時に歌われる歌だ。

 

25 ああ、主よ。どうぞ救ってください。

ああ、主よ。どうぞ栄えさせてください。

 

26 主の御名によって来る人に、祝福があるように。

私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。

 

しゅろの木の枝を振ってお祝いするのは「仮庵の祭り」時である(レビ記23:34-44)。

イェシュアは過越の祭りに十字架にかかり救いを全うされるためにエルサレムに入城されたが、それは同時に仮庵の祭り、すなわち王としての再び来られる再臨を表していたのだ。

 

黙示録7:9〜12

9 その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

10 彼らは、大声で叫んで言った。

「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」

11 御使いたちはみな、御座と長老たちと四つの生き物との回りに立っていたが、彼らも御座の前にひれ伏し、神を拝して、

12 言った。

「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

 

しゅろの枝を手に持ち「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」とイェシュアは再び来られる時に全ての民に迎えられるであろう。

 

イェシュアのヨハネ7章のみことばの成就である。

37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。

38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

 

これは、イザヤ書12:3のみことばの成就でもある。

2 見よ。神は私の救い。

私は信頼して恐れることはない。

ヤハ、主は、私の力、私のほめ歌。

私のために救いとなられた。

 

3 あなたがたは喜びながら

救いの泉から水を汲む。

4 その日、あなたがたは言う。

「主に感謝せよ。

その御名を呼び求めよ。

そのみわざを、国々の民の中に知らせよ。

御名があがめられていることを語り告げよ。

5 主をほめ歌え。

主はすばらしいことをされた。

これを、全世界に知らせよ。

6 シオンに住む者。

大声をあげて、喜び歌え。

イスラエルの聖なる方は、

あなたの中におられる、大いなる方。」

 

いのちの木の回復がなされる時が今、来ている。

ヤハウェがイスラエルを捨てられたのは、異邦人に救いを受けさせるためであったのだ!

今、私たちはイスラエルの民が、いのちの木であるイェシュアを受けいれて救われるために、このイスラエルから最も遠い東の果ての異邦の国である日本にダビデの幕屋を建て上げ、イスラエルの救いのために、心を注ぎ出して祈る時ではないだろうか。