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いのちがけのマリヤの信仰が祈りの家を建て上げる 【ダビデの幕屋の回復③】

マタイの福音書一章

14代 – 14代 – 14代(13代)の解き明かし

 

アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

 

アブラハムーイサクーヤコブーユダ(タマル)ーパレスーエスロンーアラムーアミナダブーナアソンーサルモン(ラハブ)ーボアズ(ルツ)ーオベデーエッサイーダビデ王ー14代

 

ソロモンーレハブアムーアビヤーアサーヨサパテーヨラムーウジヤーヨタムーアハズーヒゼキヤーマナセーアモンーヨシヤーエコニヤー14代

 

サラテルーゾロバベルーアビウデーエリヤキムーアゾルーサドクーアキムーエリウデーエレアザルーマタンーヤコブー(マリヤ)の夫ヨセフーキリストー13代

 

それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代、ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。

 

なぜ、マタイは13代を14代と言っているのか?

ユダヤ人に新しい教会を示すため。キリストイエスを土台とした教会が14代目となることを示すため。

イザヤ53:10

しかし、彼を砕いて、痛めることは

主のみこころであった。

もし彼が、自分のいのちを

罪過のためのいけにえとするなら、

彼は末長く、子孫を見ることができ、

主のみこころは彼によって成し遂げられる。

 

子孫とは「種」のこと ヘブライ語では זֶרַע ザラー

イエスの十字架と復活の勝利によりもたらされた聖霊降誕以降に誕生した「教会」 זֶרַע ザラー。一粒の麦の「種」が地に落ち実を結び、教会が誕生し、その「種」である教会が終わりの時代に目を覚まし、回復されて、サタンを打ち破る「キリストの花嫁の軍団」となることの預言である。新しい油注ぎを受けたキリストの花嫁の教会。イエスの十字架の血潮により黙示録のバビロンの大淫婦を打ち破る教会。

 

 

~14代目の教会はいのちがけのマリヤの信仰によって建てられる~

 

14代目の教会の信仰は「いのちがけの信仰」から生まれたがゆえに「教会」の信仰も「いのちがけの信仰」でなければならない。それが、13代目のイエスから受け継がれた14代目の教会である。

 

1番目のマリヤ(イエスの母マリヤ)~いのちがけの信仰でイエスを生んだ。姦淫の女として石打ちの死も覚悟でメシアを迎える信仰。

 

2番目のマリヤ(マグダラのマリヤ)~全てを捨てて完全な献身でイエスにナルドの香油を注ぎ十字架の備えをした。なぜ?姦淫の罪を赦され、7つの悪霊から救われたから。多く赦された者は多く愛する。マリヤは私の罪の身代わりとなって十字架で死なれ血を流されるイエスの十字架の意味を十分に理解していた。十字架の信仰。

 

3番目のマリヤ(マグダラのマリヤ)~イエスを愛して止まず、夜を明かしてイエスの墓へ。復活のイエスと出会う。復活の信仰。

 

4番目のマリヤ(教会)~私たち。イエスを再びお迎えするイエスの花嫁の信仰。再臨の備え。

5人の賢い女の教会~絶えず油を満たして花婿なるイエスの来られるのを待ち望んでいる。

(マタイ25章参照)

 

聖霊の油注ぎが一番大切。油注ぎは聖さを与える。14代目である4番目のマリヤなる教会には聖さが必要。

教会の使命~諸教会の目を覚まさせること。

ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がした。(マタイ25:6)

祈りの家の使命『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫び続けること。

 

4番目のマリヤの使命~マリヤの名前の意味~

マリヤはヘブライ語で「ミリヤム」מִרְיָם (mrym) で מַר (mr)「苦い 」とמַיִם (mah’yim)「水」の合成語。

「ミリヤム」とは「苦い水」という意味。

民数記5章13~24節を見ると、姦淫の罪を犯した女が飲まなければならないのが「のろいをもたらす苦い水」である。「この苦い水」のことを הַמָּרִֽים(mrym)(定冠詞が着く)と言う。

要するに「ミリヤム」とは「姦淫の女」のことを表す。

マリヤ=ミリヤム=姦淫の女の象徴。すなわち、イスラエルを象徴している。

そして、私たち4番目のマリヤである終わりの時代の教会を象徴してる。

私たちは、イエスにより姦淫の罪から贖い出された「4番目のマリヤ」なのだ。

 

詩篇116篇の賛美は、イエスと共に自分を捨て、自分の十字架を負ってイエスに従う「4番目のマリヤ」の殉教の賛美である。

 

1私は主を愛する。主は私の声、私の願いを聞いてくださるから。

2主は、私に耳を傾けられるので、私は生きるかぎり主を呼び求めよう。

3死の綱が私を取り巻き、よみの恐怖が私を襲い、私は苦しみと悲しみの中にあった。

4そのとき、私は主の御名を呼び求めた。「主よ。どうか私のいのちを助け出してください。」

5主は情け深く、正しい。まことに、私たちの神はあわれみ深い。

6主はわきまえのない者を守られる。私がおとしめられたとき、私をお救いになった。

7私のたましいよ。おまえの全きいこいに戻れ。主はおまえに、良くしてくださったからだ。

8まことに、あなたは私のたましいを死から、私の目を涙から、私の足をつまずきから、救い出されました。

9私は、生ける者の地で、主の御前を歩き進もう。

10「私は大いに悩んだ」と言ったときも、私は信じた。

11私はあわてて「すべての人は偽りを言う者だ」と言った。

12主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか。

13私は救いの杯をかかげ、主の御名を呼び求めよう。

14私は、自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

15主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

16ああ、主よ。私はまことにあなたのしもべです。私は、あなたのしもべ、あなたのはしための子です。あなたは私のかせを解かれました。

17私はあなたに感謝のいけにえをささげ、主の御名を呼び求めます。

18私は自分の誓いを主に果たそう。ああ、御民すべてのいる所で。

19主の家の大庭で。エルサレムよ。あなたの真ん中で。

ハレルヤ。

 

1節、私は主を愛する、なぜなら、8節、私の魂を死から救い出されたから。

13節、救いの杯をかかげ、15節、主の聖徒たちの死は主の目に尊い。

 

 

~イエスのゲッセマネの祈りの意味~

実は、イエスがマタイ26:39で「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」と言われた「この杯」とは民数記5章24節の「のろいをもたらす苦い水」「姦淫の罪」ことなのだ。

実はイエスはこう祈られたのだ「イスラエルの姦淫の罪をイスラエル(わたし=ご自身の民)に負わせないでください」と。しかし、イエスはその罪をご自身のものとして飲まれ十字架につかれた。イエスとイスラエルは一体である。イエスが十字架の道を行かれるということは、イスラエルも同じ道を行くと言うこととなる。

 

イエスはあくまでも、、まずイスラエル救いのために来られたのだ。

 

ルカ19:10

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

マタイ15:24

しかし、イエスは答えて、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外のところには遣わされていません」と言われた。

 

マタイ10:5-7

イエスは、この十二人を遣わし、そのとき彼らにこう命じられた。「異邦人の道に行ってはいけません。サマリヤ人の町に入ってはいけません。

イスラエルの家の失われた羊のところに行きなさい。

行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。

 

失われた人。これは異邦人のことではなくイスラエルのこと。イスラエルの家の失われた羊。イスラエルが失われているのであって私たちではない。

 

エゼキエル37章の話もよくリバイバルのメッセージに使われるが、これも私たちのことではなく、イスラエルのこと。

37:11

主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる』と言っている。

干からびた骨はイスラエルの全家のこと。

 

イザヤ2:2の「主の家の山」も「教会」のことではなく「イスラエル」のこと。

2:1に書いてある。

アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。

 

そして、本来、異邦人である私たちが飲まなければならない「のろいの苦い水を」イエスが飲まれ十字架で取り除いて下さったのだ。

 

だから、私の罪の身代わりとなって十字架につかれ、贖いを成就されたイエスのために全てを捨てて殉教するる聖徒たちの死は、主の目には尊いのだ(詩篇116:15)。

 

~ルツ記の真理~

ところで、贖い、買い戻しについて、解き明かされているのは、ルツ記である。

ルツ記4:13-22

14節でルツをゴーエル גָּאַל (gal’ )したのはボアズではなく、オベデであることが分かる。しかも、買い戻されたのは、ナオミである。

 

13こうしてボアズはルツをめとり、彼女は彼の妻となった。彼が彼女のところに入ったとき、主は彼女をみごもらせたので、彼女はひとりの男の子を産んだ。

14女たちはナオミに言った。「イスラエルで、その名が伝えられるよう、きょう、買い戻す者をあなたに与えて、あなたの跡を絶やさなかった主が、ほめたたえられますように。

15その子は、あなたを元気づけ、あなたの老後をみとるでしょう。あなたを愛し、七人の息子にもまさるあなたの嫁が、その子を産んだのですから。」

16ナオミはその子をとり、胸に抱いて、養い育てた。

17近所の女たちは、「ナオミに男の子が生まれた」と言って、その子に名をつけた。彼女たちは、その名をオベデと呼んだ。オベデはダビデの父エッサイの父である。

 

オベデ  עוֹבֵד(owbed)とは、しもべ、仕える者 עָבַד (家とも言う)。オベデがナオミに仕えるとは、オベデとは異邦人ルツの子であり、オベデ・エドムにつながる。(Ⅰ歴代13章13~14節そこで、ダビデは箱を彼のところダビデの町には移さず、ガテ人オベデ・エドムの家にそれを回した。このようにして、神の箱はオベデ・エドムの家族とともに、彼の家に三か月間とどまった。主はオベデ・エドムの家と、彼に属するすべてのものを祝福された。)オベデエドムの家から契約の箱がダビデの町に運ばれ、ダビデの幕屋が回復する。オベデ・エドムである異邦人のしもべ(家)(異邦人教会のこと)がイスラエルを象徴するナオミに仕えることによって、イスラエルは苦い水(十字架の道)から解放され救いに至るのである。まさに、異邦人教会が完成しイスラエルと一つになり「新しいひとりの人」(エペソ2:15)が成就する時がイエスを再びお迎えする時なのだ。

それが、やがてダビデをイスラエルの王として迎える道を開いて行くことになる。

そして、ダビデは「ダビデの幕屋」を建て上げることになるのだ。

この「ダビデの幕屋」を回復して、イエスを再びお迎えするこの時代に4番目のマリヤである教会が、24時間365日絶え間ない祈りと賛美、礼拝をささげることは、私たちの計画や努力ではなく、主のみこころの他なにものでもない。